2014年12月21日日曜日

最近、内田樹の「街場の共同体論」を読んだ。この本では最近の核家族化によって存在が希薄化してきている父親の立場を、ただお金を運んでくる人とし、家事から子供の将来までのほとんどが母親の仕事になっているため、父親は家にはいなくてよい存在と化していると言っている。この解決方法の一つが、主夫として母親のサポートに回ること、というのが良いと言っていた。読んでいるとそんな感じがしてきているけど、だからと言ってすべての家庭でそのようなことが行われているわけではないと思う。内田樹は父子家庭で娘を育ててきているから、そういった自分の体験からそのような極端な論を展開しているのだと思いたいくらいに、男性の家庭内での価値の暴落には歯止めがかかっていないらしい。私の家は母子家庭に近いものだったので、確かにこのような説に近く、強い印象と将来への不安を込めて、やや反発的な気持ちで読んでしまったが、やっぱり家族というのは全員そろっていた方が理想的じゃないだろうか?って思う。家庭を持ったことが無いので何とも言えないけれど。



資本主義社会では共同体の存在は邪魔にしかならない。それはモノを売るということを主な業種としている会社から見ると、電話とか共有されると全く売れなくなるため、利益が少なくなる。といったことを内田樹は言っていた。確かにそのような側面はあるかもしれない。身近なところを考えれば、ファミレスなどのドリンクバーとか中学生や高校生が同じグループ内で共有することだって考えたことはあるだろう。ちょっと前では中国のサラダバーで、一皿への盛り付け方を芸術的なまでにも盛り付けて、本来は個人向けのサービスなのに、家族全員でそれらを共有する、なんてのがあった。結果、企業利益が出ず、このサービスは廃止になったらしいが、これをみるとなるほど、サービスを受ける側が共同体であればあるほど、企業側からすれば利益が減ってしまう。資本主義経済の対象は、あくまで商品を買った個人に対してであって、その家族や友達は対象外だ。そして、このサービスに対してお金を払う個人以外がサービスを受けられるような場合に、企業としては利益が減ってしまう。だが、仲間内で本やDVDの貸し借りなんてよくあることだし、そんなことを言っていたら購入した本を二次的に他人に貸して金を取るようなサービスも、本来の生産者:消費者の1対1の関係から外れてしまう気がする。とは言え、こういった状況を是正する方向に社会が変わっていってしまうことについても、私は危惧する。その最もなものは、情報の電子化だ。最近増えてきた、kindleなどの電子書籍は、1アカウントごとに購入した本があるので、仲間内で読むことを想定されていない。これは、ちょっとひねくれた見方をすれば、上で言ったようにサービスを受けられるのはあくまでお金を払った個人のみで、明示していないけれど、共同体内での回し読みを制限することに目的を置いているように思える。しかも、読むための端末は一人一つ用意しないと読めないようになっているため、端末すらも一人一人に買ってもらおう、という形にしている。しかも、本の価格は実際に本を買うより少しくらいしか安くないため、回し読みされるよりは利益が出るようになった気がする。

社会の方向性がやや個人向けになってきた今、今ある共同体もやがては結びつきが希薄になっていき、資本家がより多くの利益を吸い取るようになるだろう。そんな考え方は、あえて言えば、社会主義的な資本主義の見方なのだろうけど、私は牧歌的な社会主義の理想の中に生きる人生、つまり、共同体の一員として、協力し合っていくという生き方に魅力を感じる。個人主義、という言葉のみが独り歩きした結果が今の孤独な社会を作り上げてしまったのなら、それはとても寂しいことだ。自己の努力によってのみしか切り開けない社会は、個々人に強くなることを求めているが、強くなれなかった人はどこにいくのか?孤独に死んでいくのか、あるいは国からの保証のみを求めて最低限の暮らしをしていくのか。それも確かにいいかもしれない。そこにはもしかしたら他人との協力による人間味のある暮らしが待っているのかもしれない。しかし、弱い人を切り捨てていった先には、老いという弱体化が待っている。結局は弱体化するのなら、独りで生きられるように強くなることの意味はなんなのか?所詮は資本主義という大きな意思の操り人形となっているだけなのでは
ないのか?この社会で生きていくことを思うと、社会の冷たさが身に染みるようだ。


----------------------------------------
とまぁ、考えてみたけれど、社会主義については高校倫理くらいの知識しか持たないので、実際のところはよくわからない。彼らの考える大きな存在は、本当に資本家なのだろうか?あるいはただの思い込みなのか、上流階級と下流階級との区別はどこにあるのか?(まぁ、今の話からすれば資本家とプロレタリアなんだろうけど)こんなことを考えているから、疑い深くなって幸せを逃すのだろう、と思うわけなんだけど、実際に社会について勉強している人にはそのようなものが見えるのかな?そこんとこ疑問だ。でも、やっぱり、大事なのは生き方だと思う。ちゃんと生きられれば、幸せに生きられれば、そんな小難しいことを考えなくても生きられるんだろうな~って思った師走のこのごろ。僕の楽しみはコーヒー飲みながら日向での読書なので、結局のところ難しいこととは無縁だったり。まぁ、社会を変えられる立場の人くらいでいいんじゃないかな。そういう哲学めいたことを考えるのは。全員で考えても結局はまともな議論もないだろうし。

内田樹の本を読むのは初めてなので、彼の言う部分に説明不足で理解できないところがかなり存在したのは確かだけど、一番引っかかったのは、やっぱりその部分でした。。。下流階級からは上流階級は見えないってあったけど、あんた本当に見えてんの?ってつっこみたくなることとかたくさんあり、割と面白く読めました。

0 件のコメント: