2014年7月5日土曜日

私たちは、常日頃、多くのことをやろうとして、多くのことを考えてしまう。例えば、本当に必要なことや大切なことをやろうとするのではなく、本質的にみると人生への役に立たないことや、大事なことだと思って頑張ってはいるものの、数年後には全くてがついていないことなど、物事の本質、自分のいる場所のメインストリームから目線を外して別のことを考えてる。



例えば、僕の場合、大学が一番の大切なことであり、勉強は人生の次のステップのための投資として費やすべき部分だろう。それなのに、本当に大事なことをできない理由を、時間がないと言い訳をしながらも、本質的に大事なものでないものへの優先順位が高くなっている。本当に自分のしたいことって一体何だろう?って考える時間すら無いのだ。

これは若さゆえの考え方、ライフスタイルなのだろうか?それとも、このまま老いていっても同じように行動するのだろうか?行動の指針をしっかりと持たないことには、本当に大事なことは育てることは出来ないように思える。だから、まずは思考をできる場を作る必要が出てくる。

思考の場、とは、別に勉強だけを表すのではない。時間すらもそこに組み込まれるべきだ。思考する、ということは、少し先の自分を見つめるためのプロセスの一つですらあるだろう。例えば、謀殺の日々では、常に起きているか寝ているか、の選択しかなく、やりたいことに目を向けることすらできなく、結局疲れてしまい、ストレスの元となり、ストレスをかかえたまま寝ることで、十分な睡眠が得られずに、かえってストレスを増幅させてしまう。だからこそ、思考の場、時間を日常に入れることで自分のやりたいことを作ろうというわけである。

しかし、テクノロジーに囲まれた場では、そのようなことをするための場の確保は難しい。自宅に帰ると、テレビや漫画、本が自分を囲い、そちらへの誘導を行っている。仮にそれらからの誘惑から逃れたとしても、今度は思考するために使おうとしていたPCが、ネットの世界への誘惑ものととなる。僕は、思考するときはノートに書きながらそれを進めていく派だが、最近ではノートパソコンhの移行を考えてる。理由の一つとしては、パソコンは必要なものがインターネットと電気だけであるから、ランニングコストは小さいと考えるし、また、思考を文章化するのにも最小の労力だけで済ませることができるからである。筆記よりもタイピングの方が早く、ランニングコストも低いなら、思考の効率化を図れるのではないか?と考えてしまったからだ。もっとも、現実には時間を奪うもっとも効率のいいものがパソコンであるということに気付いてからも、それを使い続けてしまったため、やはりテクノロジーは時間を奪うだけのものになりつつある。

テクノロジーは使い方がわかっているだけではダメで、使いこなさなければ意味がない。しかも、その使いこなし方もまた、自律からなるものでなければならない。今では医学すらもインターネットで深い部分まで知識を得られるようになってきている。これは勉強の上で活用したいものとしても大きいし、また、本を電子化することで得られるメリットも最近ではかなり大きなものであると思う。だからこそ、もっと自分の目的をしっかりさせるための、思考の場を作らないといけないし、作った後も自分でコントロールしていかなければならない。そのためにも、まず、どこでそれを行い、どの時間帯にそれを行うべきなのかを考えていこうと思う。差し詰め、朝活、という形でそれを行っていくのはどうだろうか?そして、それを行うために自分の部屋を片付けて、行動しやすいようにしたいと思う。